ひろめよう合掌の心 ~合掌礼~ 日蓮宗

静岡市清水区

龍華寺

所在地
静岡県静岡市清水区村松2085
山号
観富山
TEL
054-334-2858
URL
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龍華寺 龍華寺 龍華寺
造園 祖師像 境内のご案内

沿革

 寛保三年(1743)江戸堂上派歌人、亮弁により当山より見た景観を観富十二景を歌い上げ日潮上人代に板木に彫起され当山に現存しています。

龍華寺参観御案内
 当山は寛文十年(江戸時代初期)日近大僧都の開いた寺で宗派は日蓮宗であります。

開祖日近上人
 福井県小浜市で生まれ身延山第二十一世日遠上人の弟子になり静岡貞松蓮永寺第十一世ならびに甲州身延大野山本遠寺第四世を勤めた人です。養珠婦人お萬の方猶子として、有ぐうを受け養珠婦人お萬の方、没日丞応二年八月二十一日葬儀を済ませると、当山隠居する事を申し出て居ります。そして、この地を選び寺として完成し、隠居地として定めたのが寛文十年であります。日近上人は富士山が非常に好きで常に霊山富士の研究をして居られましたが、この地から観る富士の姿が最も荘厳であるとして、五十三歳の時本遠寺からこゝに移り、自ら大野別院と称して居られました。日近上人は享年八十二。
 東山天皇は日近上人を非常に崇敬遊ばされ、この寺を皇室の祈願寺と定めて、観富山龍華寺と御命名になりました。当時御下賜の勅額、御法衣、御鏡等今でも寺宝として残って居ります。

徳川家
 只今の本堂(当時御祈願所)とこの庭(観富園)は紀伊頼宣、水戸頼房二卿の寄進で紀州家庭師山平道勺等当時天下の名匠を集め、十数年の年月を費して完成したものであります。

御釋迦様坐像
 本堂正面のお釈迦様の坐像は開祖日近上人手造りであります。造営の施主紀州二代光貞の正室安之宮で、安之宮母親伏見院法号天真院妙仁日雅大姉の菩堤を弔う為、寛文元年七月開眼されたものであります。

祖師像
 伏見院御息女安宮、法号円光院栄寿日仙大姉宝永四年四月二十六日逝去と裏書されて居ります。

上行菩薩像
 日近四十二歳、鎌倉此企ヶ谷の塔中昭永院にて病気療養中手造りされたものであります。
 観富園は日近上人自らの御構想に依り「須弥山式」と云う我が国最古の造園法式で造った庭で、東海屈指の名園であります。
 造園の構想はこの地から駿河湾を隔てゝ富士山を望む天下の絶景を縮図したもので、築山は後の有度山脈を形どり、池は駿河湾に、本堂の屋根は富士山を模して造ってあり、その構想と妙技は近代造園学諸大家の賞讃の的になって居ります。
 大蘇鉄の雄株は我が国最古最大のもので、根廻り六米、枝数五十八本、樹齢推定一千百年で天然記念物の指定を受けて居り、八丈島より七本移植されて居ります。
 大サボテンは年代推定三百年で、根元は既に木化して居り、開山当時我が国で、サボテンの栽培が盛んに成り、多数の種類を輸入して居りましたが、寒さに弱く、多くの種類は枯渇、寒さに強いウチワサボテンの類が温暖の地である駿河に残っています当山のサボテンは大きな刃の様子をしている事から大宝剣という呼称があります。
 松の名園この庭は一名松の名園とも云われて、実に見事な古松が沢山ありましたが、残念ながら戦時中松喰虫の被害で四百年以上の名松が七本枯れた事は遺憾であります。名樹亀松(三百六十年)等は幸いにその被害をまぬがれたものであります。尚、銘木槙柏が二本あります。
 文豪樗牛の墓及び銅像が築山の上、七面堂のほとりにあります。明治一代の文豪高山樗牛博士もこの寺の風光を見逃さず、観富の風光本邦無二天下第一観也と賞讃し、遂に遺言に依ってこゝに墓を建てたのであります。博士は晩年日蓮聖人の教義研究に専念せられたので、この寺が日蓮宗であり清見潟の風光が最も良い所から遺言したのであります。墓石は独逸式で、その表には『吾人は須らく現代を超越せざるべからず』の銘句が刻んであり、胸像は富士を眺めている姿で斯界の最高権威朝倉文夫先生の代表作の一つであります。

心友歌碑
 高山樗牛博士と姉崎嘲風博士の世界の文壇に知られた友情美談を明治日蓮教学の大斗田中智学先生が教育勅語の「朋友相信シ」の鑑であるとして咏ぜられた歌で、樗牛の五十年祭に有志がこの美徳を後世に伝えんとして建てたものであります。

 「世のかゞみ てらす心の 友垣や 富士の高山 月の姉崎」(樗牛の高弟 山川智応博士の筆)

恋塚
 樗牛の名作歴史小説「滝口入道」の供養碑で、悲恋物語の主人公、滝口時頼と曹司横笛の霊を慰めるため、樗牛博士の六十年祭の砌、文学愛好の有志が文学碑として建てたものであります。

高山樗牛と龍華寺
樗牛の遺言
 先づこの度は墓地のこと申上候。駿河国清水港附近龍華寺と申すは、三保の松原より富士山への眺望本邦無二と存じ候。私も数回遊覧し、当に慕い居り候土地に有之候。もし小生死後に相成り候へば、右龍華寺に埋葬相願い度く候。素より故郷には祖先の墳域も有之候こと乍ら、彼の蔭鬱な禅宗寺は私の気には如何にしてもかなわず、是非是非右願いの通りに成し被下度候。龍華寺の宗旨は日蓮宗には候へ共、宗門の異同などはかまいなく御許し被下べく候。日蓮上人は私の平素崇拝する一大偉人にて、某門末の寺に埋められるは何かの因縁と覚へ申候。右墓地は私健康回復次第、彼の地に罷り越し予め談合買求め置き度く考へ居り候。此の旨御含み被下度く候、兎角の御異存も之あるやも測り知れず候へ共、このことは私の頑固なる願いに候間、新士町とも御相談の上是非是非御許し被下べく候。以下略

樗牛の略歴
 本名林次郎、明治四年山形県鶴岡に生る。仙台二高を経て、二十九年帝国大学哲学科を卒業。仙台二高教授、帝大講師、雑誌「太陽」の主筆等を歴任。帝大在学中歴史小説「滝口入道」を著して名を顕し、三十一年の頃文名愈々高く、独、仏、伊三国へ留学を命ぜらる。然るに間もなく肺患に侵され残念乍ら留学を中止せざるを得なかった。彼は断腸の思いであった。

日蓮聖人と高山樗牛
煩悶時代
 樗牛は肺患の為に留学を断念せるも、病人には病人の仕事が待っていた。しかもこれこそ彼が出世の本懐たる「宇宙真理の探究、人生神秘の開顕」と云う大事業であった。彼はこの目的を遂げんが為に、或る時は厭世論者となり、或る時は道徳の理想化を研究し、或る時は美術の鑑賞に身を潜め、又或る時は日本主義を高揚し、又は美的生活を論じて個人の自由と尊厳を主張する等、実に目まぐるしい程の思想的変転を極めたのであった。故に世人は彼を「変化の人」又は「狂気」等と侮評する者さへあった。然しこれ皆彼が目的達成の為の変化であり煩悶であって、むしろ休みなき活動であった。

一大覚醒
 然れども仏天は天才樗牛を見捨て給はず、病気療養が返って彼に凡ゆる宗教書熟読の機会を与へた。殊に日蓮上人の血涙を以て染め流された大文章を心読するに及びて、初めて目的地に達した事を確信し、彼は永遠に覚醒した。

 樗牛曰く 予を信ぜよ、日蓮は予の知れる日本人中の最大偉人也、予は和気清麿、楠正成、乃至豊臣秀吉を生ぜし日本を、さのみ大なりとは思はざれ共、日蓮を生みし日本は実に生まれ甲斐のある国土なるを思う。吾人の祖先の中に、日蓮が如き大人物を有するは、吾人は我が国を世界万邦に誇称する所以也。

水屋
  昭和五十七年 新築。作者 大笠原直。淨行菩薩像



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